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作品書評2023.2.3

編集部作品書評 高杉龍斗作『うさぎ男の幻想』

現在ボヘミア掲載中
未読の方はこちらから

これは、"記憶"にまつわる物語

うさぎ男の幻想

高杉龍斗

ボヘミア編集部 K

高杉龍斗の描く物語は一見シュールで無意味なものかと思えば
実はキャラクターや物語の進行には作者の明確な意図があり
その一つ一つ紐解いていくのがまるでパズルのようで面白い。
作品自体を紐解く状態の意識は執筆時の作者の神聖な意識状態を少なからず追体験する。

「うさぎ男の幻想」は新人募集の際に高杉龍斗から
送られてきた投稿作品でそのままvol.1に掲載が決まった作品だ。

基本的に「ある記憶」を紐を解いていく展開で出来ているが

同時にその紐を結んだり

結ぶ対象自体を消し去ろうとする「先生」というキャラクターの物語だ。

主要な登場人物は
「先生」・「うさぎ男」・「恋人(彼女)」・「妹」の四名で

厳密には先生とうさぎ男は同一人物で恋人と妹も同一人物だ

ただし後者の女性は先生の認識の中で生きる存在で
うさぎ男は先生が切り離した記憶という点で肉体界に実在するキャラクターではない。うさぎ男は先生が隔離した人格であり、幻想であり他者からは見えない存在である。

物語上に登場する。
記憶・認識・思い出という三つの言葉を見極めていくことが今作を読み解いていくうえで重要な要素だ。


先生
実の妹を椅子に縛って犯し、殺して海に棄てた過去がある。
その「過去」を自身の中から解離させて「先生」とは別に生まれた人格が「うさぎ男」であり

そのため冒頭のナレーションでは「全部、俺が生まれる前の出来事…。」と書かれている

一コマ目は先生の顔

突如うさぎ男の胸から大量の魚が溢れ出てきたことを皮切りに物語は始まる。

「私たちはお互いの認識に生きているのですよ それが重要です」

「先生」というキャラクターとこの物語のテーマを知る上で重要な台詞だ。

その前のコマには冒頭のうさぎ男の回想に出てきた。
女性と先生が一緒にうつっている写真が並んでいる。

先生は患者の治療(縫合)をする際に自身の記憶を縫い付け、自らを記憶喪失にしようと企んでいる。

次のシーンでうさぎ男が先生の元にやってくる。ただしうさぎ男は先生の隔離した人格に過ぎないので
客はうさぎ男を「認識」することができない。

先生は最初うさぎ男の正体に気づいていない。

うさぎ男は「先生が解離させた彼女の記憶」というキャラクターなので親はおろか彼女以外との記憶・交流はない。

胸から溢れ出てくるものは

彼女(妹)の胸から出てくる
苦痛の思い出である。

厳密には魚はうさぎ男の胸から出ているものではないので追って説明する。

当時椅子に縛られて犯された妹は胸から椅子が溢れ出るようになった。

「うさぎ男」と「妹との記憶」は同義で(そもそもトラウマを感じる心は先生のものでありうさぎ男には魚のトラウマというのは感じえないものである)
最初うさぎ男は「慈悲はいらないからとっとと塞いでくれ」と先生に訴え自身の役割を果たそうとしている。

しかし先生は過去の妹の例から解放を求める思い出は外に出さなければ
本人の中で増長し続けその本人は思い出に侵されてしまうと思っている。

先生は妹の胸の縫合後にその事実を知り恐らく狂気に陥ったであろう妹を殺害してしまう。

しかしうさぎ男自体は人ではなくただの記憶なのでトラウマを感じる心と呼べるもがないため「魚」の発生はありえないはず。
(記憶はあるが思い出はない)

ではなぜ魚たち(解放を求める思い出)がただの記憶であるうさぎ男の胸から溢れ出るのか。
その謎はうさぎ男の胸に潜んでいた妹が生み出していたものだということがこのシーンから理解できる。

自身が妹を殺してしまったという記憶(=うさぎ男)の中の「先生の思い出としての妹」の中に「解放されたい思い出(=魚)」が存在するという入れ子構造がある。

妹の「椅子に縛られて兄に犯されたという思い出」は「解放を求める思い出」となって椅子が胸から流れ出てきている。

兄に殺されて海に捨てられたという思い出(=魚)は

先生の認識する思い出の中の妹の胸の中から溢れ出ている。

殺してしまった以上はその魚から逃れる方法はなく、この思い出は留まり続ける。

人間は自分自身の認識の中に生きており、自身の中に存在する他者という存在は時に実在する他者のような影響をもたらす。
ということを高杉龍斗はうさぎ男の幻想の中で描いているのではないだろうか。

そしてまた「初めての性行は疑問系の感触」という
当時の先生が「人の体は何角形か知りたい」という純粋な好奇心がこの悲劇を作り出してしまったという前提にも深い悲しみと重いテーマがあると私は感じた。

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