神代文字については以前も申上げましたとほり、個人的には、それが実用文字として使はれてゐたとは考へてをりません。
つまり一般の事務的な文章だったり私信だったりとして使はれてゐたといふことは恐らくはないのではないか、と思ひます。
それは斎部広成が『古語拾遺』で冒頭で「上古の世、未だ文字有らず」と述べたことや、言語学、音韻学上の結論とも符合します。
また中国では蒼頡が文字を発明したことで鬼神が慟哭して姿を隠してしまったとか、インカ帝国では神示により文字を廃止したとか、必ずしも文字があることが優れてゐるとばかりは限りません。
といふことで漢字流入以前に文字があったといふことを強く主張する学術的根拠も薄弱であるし、またさうすることが文化の優秀性を示すことに繋がるワケではないやうです。
ぢゃァ神代文字は何ら益のないただの虚偽の産物なのかといへばさういふことではなく、これを実用文字ではなしに、呪術的な、マジカルな記号として見れば話は違って来ます。
実際にすでに江戸時代には全国の名社大社には神代文字を使用した御神札が頒布されてをり、信仰の対象として流布してゐました。
要するに神代文字のアカデミックな評価はどうでも良いのであって、実際に呪術要素として用ゐられたといふことが重要なのであります。
さうやって見ると一部の神代文字にはかなりの「力」が感じられることでせう。
以前から申し上げてをりますやうに天神地祇を上代の有力者の象徴などと考へ、神話の故事を往古の何かしらの出来事の投影としか考へない「古史古伝的思考」といふものは生命のない単なる史学であって(しかも「ある種のドグマ」に毒された史学)今となってはモハヤなんら利生するところがありません。
この神代文字も今までのやうに「古史古伝」的に考へる限り、せいぜい偽史マニアの玩弄物に過ぎないものですが、これを霊学的に用ゐるならばたちまち生命の光彩を放つのであります。
具体的には、たとへば本書掲載の神代文字の御神号などを大きく複写して掛け軸にするだけで霊験あらたかな祭壇が出来たりするワケです。
これからは神代文字もさういふ本来の意味で評価されるべきでありませう。
本書は昭和17年に発行されたものを同49年に覆刻したもので、官国幣社などに残った神代文字を印刷した御神札の影印などが多数収録されてをり、神代文字関係書籍としてはかなり有意義な書でせう。
神代文字研究の第一人者吾郷清彦氏が覆刻版序文にて、平田篤胤『神字日文伝』、落合直澄『日本古代文字考』につづく歴史的名著と絶賛してをりますが、あながち大袈裟とも云へますまい。
(担当 山口ケン)
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